自己中とは!? [※主観※]
自己中心的な人、自己中心的な行動、所謂、自己中(じこちゅう)
と言われることについて、よく思い悩まされることがあり、したがってよく考える機会があります
自己中って、何をもってそう言い表すのか。
これもまた読んで字の如くですが、
自分自身を物事の中心に据え置き、その上で全ての物事を解釈する事
そのような考えの下にとる行動が、結局、他人のことを全く考慮しない自分本位の考え方なので、
周囲に不快感を与え、迷惑をかける。
けれど、本人はそれを自覚していないことがほとんどなので、
巻き込まれる周りが頭を抱えるわけです・・・
自己中心的な行動は、幼児期の心理的な特性でもありますよね。
子供は本能で生きていますから
幼児期は誰だって、自分を客観的に見ることはできないし、
自分と異なる価値観や考え方を理解することは難しいからこそ、
自分の意見を押し通そうと我が儘を言ったり、ぐずったり、そして子供同士、よく喧嘩をするのでしょうね
けれど、それは成長と共に親のしつけや、兄弟間、学校での教育、友達間の中で、
人間同士の社会生活に必要不可欠な協調性や道徳観念が育まれていき、
次第に薄らいでいくのだと思います。
それでも、自己中な人がいるのは、人それぞれ十人十色ですから
仕方の無いことだと思います。
ただ先述したように、自己中な人は、たいていその認識がないのです。
自己中な行動を無意識、無自覚でしているのです。
職場や近所付き合いなどの人間関係で支障をきたすこともあるでしょう。
それでも何があったって、自分は自分として生きられる人はいいのです。
けれど中には、自己中な行動をとったがために、結果、周りからの信用を失い、
人付き合いが疎遠になる。 その時、
「自分の何処がいけないのだろう? 何で自分ばかりがこんな目に…」
と思い悩む人も多々います。
たとえば・・・
AさんとBさんが大切な約束をしたとします。
もしくは、大事な仕事を二人で担当していたとします。
どちらが欠けても約束や仕事が成立しないのに、当日になって
Bさん 「具合が悪いから休みます」
と平然と言ってしまう。
これが分かり易く言うと、自己中な人の典型。
Bさんにとっては、具合が悪いから休むというのは仕方がない事、と理由付けがされます。
ところが、Aさんにとっては、Bさんに休まれてしまうと、仕事や約束事に支障をきたしてしまう。
いわゆるドタキャン(土壇場キャンセル)ですから
私も何回も経験していますが、本当に困るものです。
Bさんに悪気はないけれど、約束事、仕事に対しての責任感は一切感じられません。
社会では、そう捉えられてしまうものです。
そういったドタキャンが連続して起こると、Bさんは周りから信用されなくなり、
声もかけてもらえなくなるし、仕事も一切任されなくなることが往々にしてあります。
学生時代の部活動なら、そんなことをしていたら先生や先輩から
「自己都合で周りの予定を狂わすようなことはするな」
と注意されるでしょう。
けれど、社会に出たら、そうはいきません。
全てにおいて自分の行動には責任を負うものですから。。。
当然、いちいち注意されることもなく、ただ上司や同僚からの信用を失うだけの結果となるのです。
仮に、
「あなたのそういう行動が周囲に迷惑をかけ、あなた自身の
信用を失墜させているのじゃない?」
と伝えたとします。
その時、自分が無自覚・無意識にしていた行動が周りに迷惑をかけていたのなら、
これからは気をつけようと気づくとします。
それならば良いのですが、大抵の人は、
「だって具合が悪いから休んだのに・・・ どうして?」
と思ってしまうのですよね
大切な約束、仕事を控えていて具合が悪くなるというのは社会人としての自己管理がなっていない、
と厳しい意見もあります。
でも実際、急に具合が悪くなることもあるので、一度くらいのドタキャンでは信用は失いません。
けれど、それが二度・三度となると話は別ですね。
理由が、自分の具合が悪い、とか、家族の具合が、とか、急用が、とか色々だったとしても、
ドタキャンしたという事実に変わりはないのです。
ですから自ずと信用は失われるのです。
お釈迦様の布教の目的は人々を苦から救済することでした。
苦は煩悩(ぼんのう)からおこります。
煩悩は、心身を乱し、人を悩ませます。
煩悩の根源は、貪(トン)・䐜(シン)・痴(チ)の三毒からきています。
貪は貪欲(食欲・性欲・金銭欲・物欲・名誉欲etc)のこと。
䐜は怒り。 痴は愚痴。
上記、三毒の中でも特に、愚痴この場合の愚痴は、物事の正しい道理を知らないこと(無明)ですが、
これが最も苦を引き起こす根本的なものだと言われています。
更に煩悩は、我執(自己中心的な考え、それに基づく物事への執着)から生じ、
形あるものとして生存しようとする自己形成力を生じさせるのだとお釈迦様は説かれています。
ですから前述したお釈迦様が布教目的とされた人々の苦からの解脱(救済)とは、
これら煩悩によって生じる自己形成力の消滅
を意味しているのだと言います。
要は、物事の道理を学ばずに、我執(自己執着)に囚われると、
煩悩から永遠に解放されず、苦に囚われたままでいるということです。
このお釈迦様の教えから考えると、上記のBさんは、
まさしく物事の道理が分からないまま、自分のことだけを考えて、
自分中心で物事を判断するから周囲に迷惑をかけ信用を失うのではないでしょうか?
そして、理由が分からずにいるBさんは周囲との関係に悩み苦しむのかな、と思うのです。
なかなか、こういうことを伝えるのは難しいことですが、
私の周りだけでもBさんのような方は大勢いらっしゃいます。
ですから社会に目を向けたら、本当に多くおられるのでしょうね。
その方たちが悩み苦しんでいるのなら、少しでも苦しみから心を解放できるように、
そういう方向へいくようにお手伝いをするのも私たちの役目ではないかと
日々お上人と話し合っていますが、人の心は本当に難しいものですね
私はお上人のように弁が立つほうではないので、端的な説明も出来ないし、
こうして一人ブログなど書いていると、こ~~~んなに長い文章になってしまうのです
最後まで読んでくださった方、本当にお疲れさまです
そして、ありがとうございます
結局のところ、いつも考えに考えて答えが出ないままでいるのですが、
自己中心的な人には、その人が本当に望む方向で話をしていき、
理解をしていってもらえたら嬉しいですし、それが解決に結びつけば尚嬉しいです
みんなが相手のことを思いやり、考えることが出来るなら、その上で行動が出来るなら、
人間関係のトラブルも少なくなるのでしょうけどね
2012-04-20 01:42
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